祈りの歴史と現在性について
ここ最近、寺社仏閣に赴くのもいいなと思うことが増えました。仏様の前、境内の石段の前で手を合わせて祈ったところで
何かが起こるわけでも何かご利益が明確に降りてくるわけでもない。なのに、なぜ人は祈るのか。不思議に思います。
祈る際、人は本当に神仏を信じて祈っているのか。それは分かりませんが、祈る自分そのものに満足している場合もあるかと
思います。年に一度初詣に行くことがそれらを信じていることになるのか、私には疑問です。宗教は精神性であるとよく考えます。
祈りの非実用性からそれを否定する観点もあると思いますが、それは精神性を否定することであり、心の豊かさを狭めているような
見方に感じます。
宗教の基本は大いなるものや秩序を信じることであると思います。また、不条理に納得を与える合理化としての側面があるように思います。
とりわけ、将来の不安のような未知に対する心の安定を与える働きがあるように思います。
祈りとは何なのか考えていたのですが、祈りとは自己相対化の中に宿る純粋な願いの発露なのではないかと思います。
また、未知を受け入れた上でのそれでも残る自身の希望のようなものだと感じます。そこには敬虔さ、純粋さ、信じる態度が
あるように思います。祈ることは素直であることとも解釈できそうです。
祈りとは非常に静かなもので、手を合わせて目を閉じる瞼の裏で何を考え、何を信じているのかの本当の事は私には分かりません。
でもその手を合わせる行為に代表される所作を見れば、何事かを信じて願っているだろうことだけは分かります。祈ることは他力本願として
馬鹿にする向きもありますが、それは個人主義の一姿なのでしょう。祈りとは、自身には何もできないが世界はそうあってほしいという態度の表明であり、
やはりここで重要なのは自分には何もできないという認識にあると思います。
一個人にとって最も静かで揺らがない基盤となるのはこの祈りの態度であると最近感じます。それは手を合わせる・合わせないに限らない話であり、
日常生活で常に心の奥底で信じているものです。
神社で手を合わせる時、この行為は色んな人間がしてきた行為であると考える時があります。それは現代よりも自然災害が猛威を振るい、食料生産システムが
不安定な古代、中世といった過去の時代において幾度もの飢饉や戦乱があり、その中で一庶民ができることといったら神仏に祈ることだったのではないかと想像します。
死にゆく人間の中で神社に参り、祈った人々もまた死んでいき、その連鎖の中で社会が進展し、生きやすくなり、今では観光気分で参ることができる。
過去の人が祈ってきたであろう平和な時代に徐々に進んできた結果であると思います。祈りとは何なのか。それは人類普遍の集合的無意識的な漠然と良い世界であればいいな
という曖昧で朧げなものかもしれませんが、それが手を合わせるという所作に宿っているのだとしたらなんだか魅力的に感じます。
話は変わって、現在性についての話なのですが、現在は最善であるという捉え方について考えてみたいと思います。最近そう思うようになったのですが、
現在とは後から先から思おうがその時の確定された瞬間であり、そういう意味で事実として最善と言えるな、ということです。現在とは最善の連続であり、
そういう意味で、私は常にベストを尽くしているということです。それは心情的にベストを尽くしたかどうかは関係ないという話であり、またそういう回顧も
意味を為さないということです。
では現在は最善であるのに、なぜ人は祈るのか。それは現在が最善であるからこそ、その限界を知り、さらに良い状態になることを願うからなのではないかと
考えます。また、最善の現在に屈することなく、自身の中にある最善の姿を信じることのできる想像力の発現ではないかと考えます。そういう意味で、祈りとは
現実よりも自身を信じる姿であると思います。
祈りは無意味なのか。それがあるからこそ、自暴自棄も停滞にもならず、社会は人にとって住みやすく、生きやすく姿を変えてきたのではないかと思います。
手を合わせる行為には深い意味や背景があると思います。