幼児と分解能、成熟について
以下、某所で書いたものを改稿したものです。
まず、詩人とは物事への分解能が高い人なのではないか、という仮定を立てました。これはほとんど
感受性が高い人、ということと同義だと思います。つまり、ここで言いたいことは分解能と感受性は似ているなあという
所感、これに尽きます。
詩人は物事への分解能が高いとして、物事への分解能が高いことはそのまま成熟の一条件なのだとしたら、詩人は
成熟した人間だと言ってもよいかと思います。ではなぜ、成熟が分解能の高さに関連しているのか、それについて考えてみます。
幼児は物事の差異が分からず、大切なものもそうでないものも等しく粗末に扱い、時には破壊します。それは何が大切で何が大切で
ないかの二点間の差異を認識できず、異なる二物を同等に捉えるからなのだと思います。つまり、分析能力が無く、現実主導よりかは
欲求主導の働きをする。その様相は、現実世界の事物の働きや論理を認知できず、それらが波及的にもたらす前後関係の文脈を知り得ず、
自身の行為によって起こる帰結を理解しないということであり、これはこう動く、あれはこう働く、という各々の作用を独立的に
見分けられないが為に、外界の各作用の干渉を受けにくく自己完結しており、なおかつ微妙な枝葉が等しく平らかになり、どれもこれも
結局同じでそれらが異なる意味を持たない、という世界がそこには広がっているのだと思います。これはすなわち、高級なものも低級なものも
同一に見える、ということ。では、高級なものを提供している自負心を持つ者から見て、この人とはどのように映るのか。それはもう、
寂しい感じを抱くだけであり、こういった理由から例えば創作の鑑賞においては、作り手だけでなく鑑賞者の分解能も感じ方に影響する
と思います。その為、鑑賞行為には鑑賞者の成熟も問われる、という論は正しいと思います。
この分解能に繋がるのは、知識・経験、分析、思想等であり、結晶性知能と呼ばれるものだと思います。分解能を高めて物事を深く味わうには
結局、多種多様な経験だったり、深い経験のどちらかを積んでいくしか無いのかなと思いました。
結論が普通過ぎるので、それっぽく締めくくると、幼児は何でも同一に見ているので物を破壊しても『分解能が無いもんなー』と考えて
心を平静に保つ手段にはできる話なのではないでしょうか。