笑いの沸点があるなら笑いの融点はあるのか
笑いの沸点という慣用表現について考える。意味はその人の笑いやすさだが、この表現が成立した過程を考えてみようと思う。
沸点というからには笑いを沸騰に喩えている。これは笑いの突発的な様子、劇的な様子が水がブクブクと激しく泡を出しながら
沸騰している様と似ている、という発想から来ているのだと思う。笑い続ける様子なんかは、水が沸騰してブクブク言い続けている
様子と重なるのではないだろうか。
この喩えの根幹を為すのは、笑いと水の沸騰のどちらも目に見えて、分かりやすい変化である、ということではないだろうか。
つまり、この喩えが対象にしている笑いというのは、明らかに他者にも伝わる笑い顔、笑い声といった笑い仕草が明瞭な場合のものであると思う。
試しに笑いの融点という言葉で同じ意味を表現できるか考えてみる。融点とは物体が個体から液体に変わる瞬間の温度のことを指すが、
水の場合、それは氷が水になる瞬間だ。この瞬間はどうだろうか。氷が水になる変化というのは確かに起こっているのだが、沸騰に比較して
それは聴覚にしても視覚にしても非常に地味なものではないだろうか。だからこそ、笑いの融点が低い、なんて言葉は生まれなかったのだと思う。
また、こうも考えられる。笑いの無い平静な状態を常温と捉え、そこから何か笑う状況が生まれた時を温度の高い状態と捉えたが故の言葉である、
ということ。(融点が低いという表現をした場合、ひどくつまらない状態を平静な状態としてスタートしている為、フラットな視点では無い為)
では笑いの融点は存在しないのだろうか。ここまでの論からすれば笑いの融点たれるものは以下の二つの要素を有するものだろう。
- つまらない状態から平静な状態への移行点
- 外からは見えづらい変化だが確実に変化しているもの
上記二つを満たす何かしらの難易が笑いの融点ということになる。それはずばり、心の開きやすさではいだろうか。
論拠は二つある。まず、固体⇒液体⇒気体というように連続的な変化であるならば、融点は沸点つまり笑いの起こる前段階という意味を持つ。
次に、融点という言葉は固いものが柔らかくなるという意味を連想させる。つまり、笑いが巻き起こる前段階として、心が物事に開かれていて柔軟で
あることが条件として存在していると考える。
上記の正誤は判断せず、笑いの融点とは心の開きやすさであるという前提のもと、この語を実際に使用した時の効果を検討してみたい。
「Aさんは笑いの融点が低いよね」この発言はAさんが心を開きやすい性質であることを表す。「Aさんは笑いの融点が高いよね」この発言は
Aさんが心を開きにくい性質であることを表し、つまりAさんは堅物だと言っている。単に堅物と言ってしまうとそれまでだが、
笑いの融点が高いと形容することで、Aさんは確かに堅物だが心を開く可能性が無いわけではないことを強調させる。そしてその先に
Aさんも笑う可能性があることを示唆させる。これは、人とのコミュニケーション不和による摩擦をカモフラージュする希望的観測を伴った
婉曲表現として機能しないだろうか。
氷解する心なんて暗喩表現はわりとよく見るフレーズだが、これは笑いの融点そのものを指す言葉ではないだろうか。心の氷解しやすさ、なんて
言葉は説明的だがこれを笑いの融点が低い、と表現することで婉曲的にその状態を表現できるのである種詩的で有用な表現だと思う。
ということで笑いの融点があるとするならば、それは心の開きやすさだろうという話でした。