夢という魅了に伴う時間消費、そして現実逃避への効果について

 夢について考える。これは眠る時の夢ではなく、現実に対する反意語としての意味での夢という語彙を対象にしている。現実逃避の効能とは何だろうか。 そう考えた時、まずその責任と緊急性の除外を思う。つまり、自由闊達な可能性の模索が許容され、どんな緊迫の瞬間や普段の生活からは絶対に手の届かない 状況への想像としての手を差し伸べることが許容される懐の広さがそこにあるのではないだろうか。人間として生きる以上、私達には必ず能力的だったり資源的 だったり環境的だったりの限界が目の前に立ちはだかり、その狭苦しさに疲弊する。例外的に能力にも資源にも環境にも恵まれた人は存在するだろうが、それは やはり例外でごく少数なので、今は触れないこととする。今、私が相手にしたいそれらの人間は現実への避暑地として夢を観る、ということを戦略的に するのではないか。この過程をまず前提として設定したい。
 この前提からまず考えられるのは、能力・資源・環境の全てに恵まれた人間は夢を観る必要があまり無いのではないか、ということだ。また、同じ意味として 夢とは何かしらの逼迫する現実と向き合っている人間が活用するある種の手段なのではないか、ということだ。そう考えた時、真のユーモアとは窮乏や貧困などの ディスアドヴァンテージに曝された人間が持つ特殊な技能なのではないか、ということを思った。これの最も有名な例が喜劇王チャップリンなのだと思う。 逆に言えば、例外として挙げたような恵まれた者が披露する一見ユーモアに見えるものは、実はユーモアでは無いのではないか。ユーモアの定義を、悲境の 中に人生のおかしみを見つける能力だとするならば、そもそもその例外的な人の見せる一見ユーモアのようなものはまず前提として成り立たない。ではあれは 何かというと、自己の順風満帆な人生の自己信頼の発露以上の何物ではないのではないか。
 では、真に苦境に立たされた者にとって、その例外的な恵まれた者のユーモアに見えるものは何も役立たないものなのではないか。苦境に立つ人間が 自身の人生におかしみを見つけて悲哀を中和させることに意義があるのであって、そうなると苦境の人間を助けるのは同じ苦境の人間の中でも 人生におかしみを見つける能力を持つ者だけなのではないか。
 そう考えてみると、この世には結局格差があって、その上下間を貫くある一つの夢というものは存在しない。近しい境遇の中でも夢を見る人と見ない人がいて、 夢を見る人は現実を飛び越したおかしみというものを見つけ、自身の境遇を相対化する。それによって、疑似的に自身の境遇を一つ上に上げる。そして、それに 他人が感化されて、同じ効能を受けることも許されている。
 ここで言いたいのは、夢とは自身の現実を無視して一つ上のステージを見ることを許す、つまり自分もまた他人のように更に輝けるのではないかという 淡い期待を許してくれる避暑地でもあれば自己効力感の回復を示唆する営みであると思う。夢を観るということは、自己超越に他ならないと思う。
 しかし、夢を観るだけでは現実は過ぎていく一方で、老いることで確実に可能性は縮まっていく。だからこそ、夢見たそのビジョンに従って 行動を起こしていくことが重要だと思う。頭の中で済ませるのではなく、体で表現していくことが重要だと思う。夢が将来の現実であること、これを 疑わないのが信じるということだと思う。

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